百姓生活と修正資本主義

 資本主義と共産または社会主義は互いに対立する経済システムとして理解しているが、戦後の日本は米国や英仏独など欧米の自由民主主義を政治システムとする資本主義システムに則って法律や経済・政治システムを構築している。そして、戦後生まれの私は生活や文化が急速に豊かで自由なものとなり、誰にも機会が与えられるこの自由民主主義の資本主義社会を疑問もなく、肯定している。
 しかし、世界を見るとロシアや中国など社会主義とは言えないが、自由民主主義でもなく、資本主義ではあっても独裁政治に近い政治システムの国がすくなからずあり、その国力が自由民主主義国の経済や社会を脅かすまでになり、未来がかならずしも今までとは異なる世界になる懸念を抱くまでになっている。
 資本主義はあるルールを守りながら、自由に市場で競争してより高い価値を提供するものが選択され、結果として利益を得るシステムである。社会主義は交通インフラや電力・水道・ガスなど公共設備などに代表されるように社会全体の公共の利益のために計画的にあるいは独占的に設計・実施される経済システムである。社会主義では自由競争が働かない。
 昨年来の新型コロナの感染対策をそれぞれの国で対応しているやり方を見ていると国によって違いが鮮やかである。決定システムが異なる。民主主義では自由に意見を出せるので、新しい事態に対応するため何を決めるにも勝手に決めることはできなくて、反対意見も集めて議論して結論に至るため、手続きや決定に時間がかかる。しかし、独裁主義の国では決定する人が少なくてほぼ決まっているので早い。しかし、決定の透明性が確保されているかは不明であるし、結果の責任も担保されているかは不明である。だが、中国などは都市封鎖や外出禁止などに限らず、感染を封じ込めてワクチンの開発等なども早く対応している。しかし、こうした素早い対応に伴う負の面は表に出ないので一概に是非を言うことはむつかしい。
 こうしたことは昔から指摘されており、特に新しい見解ではない。中国の土地はすべて国の持ち物であるが経済システムは共産主義システムではない。資本主義を取り入れて、市場競争を促し、利益の再投資を可能としている。だから、資本主義といえるがあくまでも独裁政治下での限定資本主義である。
 日本で新型コロナの感染者が増え、大都市では病院の収容・看護能力の限界に近づき、外出を控え、感染者を減らす措置として緊急事態宣言を継続している。この病院の感染者収容能力が低い理由は受け入れ病院のほとんどは公立病院であり、多くの民間病院は対応できないという。公立病院は国や自治体の下にあり、国の指示に従うが、民間病院は利益がでない感染者受け入れは消極的であるということが背景としてあるらしい。
 これは一時的な一つの例であるが、公共利益を第一義に考える組織も必要であることを感じる。平時には民間病院の方が効率よく、先進的であるかもしれないが、どのような事態でも資本主義が優れている訳でもない。
 百姓の真似事をして、田畑を耕していると私が年を取り、耕せなくなり誰も面倒を見なくなるとこのような農地はどうなっていくのだろうと考える。市場競争による資本主義に任せるとかつての農地は里山として自然と一体となっていたが、機械化農業あるいは施設農業として効率追求に利用され、結果として自然が破壊されてしまうかあるいは放置され、荒廃してしまうのであろう。
 自然という価値が資本主義の中で高い経済価値として評価されない限り、自然破壊へとつながり、やがては地球を住めなくしてしまうと思う。どのように資本主義の中で自然の価値を評価していくかが課題となろう。
 脱炭素社会に向かって、二酸化炭素の排出の経済的価値を評価しようとして排出権取引や炭素税などが国際的にも部分的に試行されている。さらに評価が難しいが自然の保持のための努力が価値として取引される修正資本主義システムが待たれるが残された時間はそれほど長くないだろう。AIの活用や最近の若者の高い環境意識に期待している。(サイト補助者MM)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です