コーヒー遍歴を振り返ったので次は研究遍歴をたどってみる。高校の時、物理の時間で力が質量と加速度を掛け合わせたものだということを習ったがどうして力がこう表現できるのか感覚的に理解できなかった。しかし、重りをある高さから落下させるとその位置エネルギーが熱エネルギーに変換され、実際に重りの温度が上昇することを実験で確認したとき、驚きと同時に物理は辻褄があっていることに感動したことを覚えている。
高校1年の終わりに、その後のクラス分けで理系か文系を選択するが、いろいろ迷ったが結局、理系を選択した。小学校の時、近所のお兄さんのラジオ雑誌や中学の時にラジコン飛行機に魅せられて作ったりして、興味を引いた。そして、得意かどうかというよりも理系から文系には転向できるが逆は難しいということなどで理系を選んだ。理系は学ぶ範囲が広かったのである。
大学は工学部電気系に進んだ。大学では物理学者や数学者の伝記をよく読んだ。そして、自分も新たな法則や現象を発見するつもりになっていた。今から考えると「井の中のかわず大海を知らず」であったなと思う。若者の持つ無限の可能性を信じる大胆さであろうか。その頃、何が心に残っているかというと大学の教科書として使われた「ファインマン物理学」である。力学や電磁気学など複数の分冊があるがどれも面白い。それぞれの物理現象を生きた言葉を使って法則を説明している。ファインマン博士が実際に大学で講義した内容をそっくり本にしている。そのユニークで分かり易い語り口にすっかり、電磁気学が好きになった。そして、数式が表現する意味が深いことを知った。毎週、講義に関連して電磁気の宿題が出されたが難しくて数日考えてもわからないがそれでも不思議に前日になると解けるということが何度もつづいた。問題を咀嚼して熟成するのに時間がかかるということを知った。
卒業研究はその先生の研究室を志望して、その頃の最新の論文をひとつ与えられ、その論文の外部条件が少し変形した場合の解を求めることをテーマとした。実験ではなく、理論と数値計算であった。その頃はフォートランという科学技術計算用言語と大型計算機を使っていた。その能力は今のPCより劣っていただろうと思うが、プログラム入力にパンチカードを使っており、プログラムの修正に何回も電算機センターを往復した。
大学卒業時にはオイルショックの不況からまだ回復しておらず、採用を見送る会社が多かったので、大学院の修士に進むことにした。大学院に進学したことは自分にとってその後を決める大きな転機となっている。専攻は電子工学であるが、志望した研究室はその頃、通信技術の最先端であった光通信を研究しており、その中でも電子デバイスとして具体的には半導体レーザや光ファイバであった。その研究室の教授は世界的に著名な光通信の研究者であることを卒研の教授に報告に行ったときに教えられた。その研究室には博士課程、修士課程の学生だけでなく、技官、助手に加え、海外や企業からの研究者も一時的に居て、国際的で人の出入りも多かった。
光通信技術は黎明期から実用化に向けて大きく発展をしているときで通信デバイスも国内外の研究室で新しい材料や構造を提案し、実現して、トップデータの先陣争いをしていた。のんびりした地方の大学から都会の激しい競争の最中にある先端研究生活に飛び込んだ。いろいろな人との出会いがあり、刺激的で貴重な経験であった。
研究テーマはいくつか練習問題的な課題を解いた後、光ファイバの究極的な帯域幅を求めることであった。レーザ光が究極的に純粋な波長(周波数)に近づいた時に光ファイバで送れる信号の歪から決まる最大信号速度を求めることであった。このテーマは教授から与えられたが基本的な疑問であり、当時としてはまだレーザの性能が未熟な段階であったので差し迫った問題ではなかったが、非常に原理的な疑問であり、これに応えることは後世にも残る可能性もあるテーマで教授の目の付け所に感心した。これを修士論文として卒業時にまとめたが、その後、指導してもらった助教授が論文にまとめて外部に発表している。筆頭著者ではなかったが、連名で入り、私の最初の論文となった。これを解くために大学の図書館でやっと見つけた英語の数学ハンドブックを利用したことを覚えている。
大学院で学んだことは多いがその中で得た研究のノウハウはその後の企業での研究開発に非常に役だった。大きく2つある。ひとつは数式モデルは単純化して簡単にすることである。三次元の問題なら、二次元に落として簡単にして解いて、それで本質をまずつかむというアプローチである。重要なことは物理的振る舞いをつかむことであり、このために問題をできるだけ、単純化するということである。私は企業に入ってから、マルチモードファイバの接続帯域が距離の平方根に比例するという距離依存性を数式モデルで明らかにしたが、この発想は単純化モデルにある。この論文で初めて海外出張してサンフランシスコで発表した。2つ目はぎりぎりの性能を使えということである。半導体レーザは学生当時には短波長域でまず開発されたが光ファイバの伝送損失が最も小さくなるのはもっと長い波長域であることが示唆されるとレーザ光の長波長発光の実現が喫緊の課題となり、世界中の研究者が競争していた。その時、教授の研究室が一番乗りをしたのであるが、その成功の秘密のひとつは長波長に受光感度のある受光デバイスを見つけたことである。当然、長波長に感度のある受光デバイスは市場に存在しなかったが、短波長用受光デバイスには製造バラつきがあり、中には長波長に感度のあるものも混じっていることを信じて、それを見つけ出したことである。これにより、たとえ発光していても受光できなければレーザ性能を確認できなかったが、それを実現させたのは製造バラつきによる感度のテールを利用したことである。
私が経験した企業の開発競争でそれを応用したものがある。光ファイバの長波長域で伝送損失がもっとも小さくなるがその障害となっていたものが水分の吸収損失である。光ファイバを製造するプロセスから水分を完全に除去できていなかったのである。その頃、光ファイバは石英ガラスでできており、この石英ガラスを焼結するプロセスで水分を除去するのであるが、その焼結炉はカーボンでできていた。石英の焼結温度に耐えられる材料としてカーボンが選択された。しかし、カーボンでは気密性が保持できない。そこで石英の炉材を使えないかが議論され、石英製光ファイバの焼結する炉材として石英では焼結時の高温で変形して持たないだろうとの大方の見方であったが実際にやってみるとできるだけ低温で時間を掛けて焼結すると石英炉材が変形せずにつかえたのである。この結果、世界で初めて無水の光ファイバを実現して脚光を浴びることとなった。これは常識で言えば使えない材料をぎりぎりの条件で試してみることで成功した例である。
その後、いろいろな物を研究開発してきたが、工学には正解というものはない、あるものは最適化ということでやはりどこかで妥協するということだと思う。そして、問題解決にはどこかにヒントがあり、それを結びつけることが重要となる。ゼロからの発想ではなく、連想が働いて解決するということだと思う。現在はリタイヤして野菜作りをしているが、野菜作りやコメ作りは研究開発以上に面白いし、楽しい。うまく行かないことが多いがその理由を探して改善していくことはすべてに通ずる問題解決の喜びである。(サイト補助者MM)