新型コロナという不条理

 新型コロナの流行で、感染の危険性が高い夜の食事や宴席を提供する飲食業などが営業を制限されている。短期間で営業損失も軽微であれば協力して我慢もできるが、断続的に1年以上も続き、時間制限や休業のために赤字が膨れ上がり、死活問題となると協力したくともできなくなる。政府から持続のための給付金が出ても、十分でない者にとっては全く不条理としか思えないだろう。一方で家庭での食事が増え、需要が増加した食料品の販売店や通販事業者は好調である。観光業や娯楽関係も顧客が減り大きな打撃を受けている。業界により、新型コロナのパンデミックの影響が明暗を分けている。人間は生まれながらにして平等であるとはいうものの、新型コロナという環境変化で個人の行動の是非とは無関係に大きく経済活動に差がついている。政府の役割として、国民の生命を守ることが最も重要であるが、同時に生活を守ることも重要である。感染を防ぐために接触の機会を減らすという施策は同時に接客を制限し、経済活動を制限することになる。その両立が難しい。その手立ては素早く、公平が望ましいがその国の持つ政策決定実施システムは歴史的な経緯があり、今回のようなパンデミックに対しては経験不足で時間がかかる。国によって巧拙の差が出てくる。ワクチン接種スピードの早い国では国民全体に集団免疫ができつつあり、感染者数も下がってきている。
 東日本大震災は近年では例のない想定規模を超える震災で多くの被災者が出た。特に福島の原発により放射能汚染された地域の人にとっては地震の直接被害ではなく、原発事故により住み慣れた家や故郷を追い出されて、補償も十分でない難民生活が始まるという不条理に身を置いている。
 このような不条理に遭遇すると人はどうなるのだろうか。私にはそのような経験がないので想像するしかない。想像するに救われない思いに捕らわれるのではないだろうか。もちろん、生活を立て直すための経済的な支援や補償を政府に要求することはもちろんであるが、精神的な打撃をどう立て直すかは宗教的なものか、あるいは人の親切かも知れないと思う。宗教は人類の長い歴史のさまざまな不条理に対して心のケアを行ってきたのではないかと思う。私の場合、こんな時に頼りたいと思うものは結局、私を無条件の愛で産み育ててくれた両親やその繰り返しとしてつながる先祖ではないかと思う。だから実家や故郷に帰れなくなることは本当につらいことだと思う。神社やお寺には普段からの交流はないので相談のしようがない。感銘を受けた宗教者がいるわけでもない。テレビ等の報道で被災者の言葉から察すると人の親切や思いやりが心をいやしていると思う。人のつながりや親切、ボランティアなど無私の行為が心を癒しているように思う。この年齢になってくるとあの世に呼ばれるまでに何をすべきかを考えるがこの辺りではないだろうかと考えるこの頃である。(サイト補助者MM)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です